昭和の歌謡界を彩ったブギの女王生誕の地『笠置シヅ子ルーム』を訪問してきましたッ!
『笠置シヅ子ルーム』は、相生コミュニティセンター(相生小学校跡地)の平和保育所跡の中にあります。土日祝のみオープンだそうです。
▲ 場所はカフェ『相生古里庵』の向かいです。
『笠置シヅ子ルーム』到着
▲ 相生コミュニティセンター到着。オレンジのど派手な看板が目印です。
▲ なんて素敵な場所なんでしょうか。
▲ 現在は閉園している『平和保育所』の中に入ります。不法侵入で職質されないか心配で胸が高鳴ります。
▲ 閉園しているのに新しそうな遊具の園庭です。
▲ ぜんぜん使えそうです。職質が怖いのでブランコには乗りませんでした。
▲ 長い園舎です。
▲ 長い園舎を歩いていくと・・・
▲ 突き当りに『笠置シヅ子ルーム』がありました。
▲ 入ってみると長い廊下でした。
『笠置シヅ子ルーム』入場ッ!
▲ 入口には『笠置シヅ子』のパネルが!可愛いイラストです。
▲ さっそく入場ッ!とその前に・・・
▲ いろいろと心を持っていかれる表情です。
▲ レトロ感あふれる手書きのポスター。
▲ まずは『笠置シヅ子』の年表から。
西暦 | 和暦 | 笠置シヅ子 関連年譜 |
1914年 | 大正3年 | 香川県相生村(現東かがわ市引田町)で生まれる まもなく亀井音吉、うめ夫妻の養女になり大阪へ |
1927年 | 昭和2年 | 南恩加島尋常小学校卒業。宝塚音楽学校を受験するも不合格 直ちに松竹楽劇部養成所へ入る。8月三笠静子の芸名で初舞台 |
1933年 | 8年 | 「女鳴神」の熱演でトップスター10選に選ばれる この年、東西の松竹少女歌劇部の少女たちが労働争議を起こす 委員長は水の江滝子。新聞で騒がれ、桃色争議と呼ばれた |
1935年 | 10年 | 三笠宮家創立に伴い、芸名を三笠静子から笠置シズ子に改名 |
1938年 | 13年 | 春、上京。松竹が松竹楽劇団(SGD)を創設。 副指揮者の服部良一と出会う、服部の指導でジャズを歌い、人気を呼ぶ |
1939年 | 14年 | コロムビア専属歌手。服部作曲「ラッパと娘」をレコーディング |
1940年 | 15年 | ジャズが適性音楽になり、丸の内界隈の劇場出演が禁じられる |
1941年 | 16年 | 松竹楽劇団解散後、「笠置シズ子とその劇団」を結成。工場慰問など |
1943年 | 18年 | 吉本興業の吉本頴右と出会い、同棲 |
1945年 | 20年 | 8月富山県高岡市で工場慰問公演中(公演は中止)、敗戦を知る 11月有楽町の日劇が再開され戦後第1回公演「ハイライト」に出演 12月服部良一が上海から帰還 |
1946年 | 21年 | 有楽座でエノケン(複本健一)との共演舞台が始まる |
1947年 | 22年 | 2月日劇「ジャズカルメン」に主演。5月吉本頴右死去。6月ヱイ子誕生 9月服部良一作曲「東京ブギウギ」録音。10月日劇で「東京ブギウギ」を歌い踊る |
1948年 | 23年 | 1月「東京ブギウギ」発売、大ヒット。映画「群いどれ天使」(黒澤明監督)に出演 服部作曲のブギシリーズ「ジャングル・ブギー」「さくらブギウギ」「ヘイヘイブギー」 「博多ブギ」「大阪ブギウギ」「ホームランブギー」と矢継ぎ早に唄い、いずれも大ヒット 映画出演、舞台、エノケンとの共演など、日本中を駆け回るスーパースター「ブギの女王」に |
1949年 | 24年 | 生まれ故郷引田町で凱旋公演 東京財務局が著名人の高額納税者として、作家の吉川英治に継いで2位と発表 美空ひばりが正式にデビュー |
1950年 | 25年 | 6月から4か月間、服部らと米国へ。「買物ブギー」が大ヒット |
1951年 | 26年 | 世田谷区弦巻に新居完成、引っ越す |
1952年 | 27年 | 1月第2回NHK紅白歌合戦に初出場。「買物ブギー」を歌う |
1953年 | 28年 | 1月第3回NHK紅白歌合戦に出場、紅組トリで「ホームラン・ブギー」歌う 2月テレビ本放送開始。日比谷公会堂での生放送に出演 12月31日第4回NHK紅白歌合戦に出場、「東京ブギウギ」歌う |
1954年 | 29年 | 子どもの命と引き換えに金を要求する脅迫状が届くが、犯人逮捕 |
1956年 | 31年 | 「たよりにしてまっせ」が最後の吹込みレコードに 年末の第7回NHK紅白歌合戦に出場。大トリで「ヘイヘイ・ブギー」歌う |
1957年 | 32年 | この年から歌手を廃業宣言し、体優、タレントとして活躍。芸名を笠置シヅ子とする 映画:舞台、テレビドラマ、CMなどで活躍 この年から始まったTBS「家族そろって歌合戦」の審査員を1980年まで務める |
1981年 | 56年 | 有楽町・日本劇場(日劇)閉館 サヨナラ日劇公演最終日の2月15日、長谷川一夫、山口淑子(李香蘭)とともに舞台挨拶 |
1985年 | 60年 | 3月30日 笠置シヅ子死去70歳 |
砂古口早苗氏作成
▲ こちらはイラストが入った年表です。
▲ 二枚目。
▲ 三枚目。
▲ 四枚目で終了です。
笠置シヅ子の生涯
▲ 1.笠置シヅ子の誕生
笠置シヅ子(本名:亀井静子)は大正3年(1914年)8月25日、香川県大川郡相生村(現在の東かがわ市)で、父・三谷陳平と母・谷口鳴尾との間に生まれました。しかし、鳴尾の乳の出が悪かったことで、引田で手袋工場を経営していた中島家当主の妹で大阪から出産のため帰省中だった麁井ウメが養母として引き取ることとなり、ウメの夫・電井音古も養父としてシヅ子と共に大阪で暮らすことになります。
(写真は大坂峠からの相生地区)
▲ 2.シヅ子の松作劇団時代
シヅ子は3歳から日本舞踊や三味線を習いました。昭和2年(1927年)、小学校卒業後に宝塚歌劇団を受験するも、身長が足りず不合格に。納得の行かなかったシヅ子は大阪・松少女歌劇団の事務所に押しかけ、入団をみとめられました。シヅ子は他人の何倍も努力をし、同年、初舞台「日本新八景おどり」に出演(芸名:三笠静子)。その後、東京での公演でスカウトされたことがきっかけで、11年間に及ぶ大阪・松作少女歌劇団時代を経て、昭和13年(1938年)シヅ子は上京を果たしました(当時24歳)。
その後、東宝への引き抜き・移籍問題が生じるも、戦争の激化による取締強化のため、昭和16年(1941年)の正月公演により東京・松作楽劇団(注1)の解散を命じられました。
(注1)昭和14(1933)年、シヅ子は松竹が東京に創設した松竹楽劇団にスカウトされ入団します。
▲ 3.未婚の母としてのシヅ子
昭和18年(1943年)、シヅ子は名古屋公園にて9歳年下の吉本穎右(吉本興業社長・吉本せいの一人息子)に出会い、恋に落ちます。しかし、穎右は結核を患い、昭和21年(1946年)年にシヅ子は妊娠しますが、穎右の母・吉本せいの反対で入籍できないまま、昭和22年(1947年)年5月に穎右は息を引き取りました。享年24歳。
吉本穎右の死後、昭和22年(1947年)6月1日、亀井エイ子を出産。シヅ子は未婚の母として歌手を続けます。同年以降、大とットする「東京ブギウギ」をはじめとした公演をこなしながら、幕間にエイ子をあやし、授乳もこなすという一面もありました。
▲ 4.「スイングの女王」から「ブギの女王」へ
当時、映画評論家として活躍し、数々の書籍も出版していた双葉十三郎(本名:小川一彦)は、昭和14年(1939年)4月に行われた笠置シヅ子出演の松竹楽劇団公演「カレッジ・スイング」に魅了され、映画雑誌『スタア』にて「スイングの女王」と評しました。その後、コロムビア専属歌手となり、発声方法を変化させたことによる喉の痛みから医者に歌うことを禁じられましたが、プロ根性で舞台に出演しました。
(写真は東かがわ市歴史民俗資料館所蔵資料)
▲ 5.「東京ブギウギ」の大ヒット
昭和22年(1947年)9月、「東京ブギウギ」がレコーディングされ、同月、大阪梅田劇場で初披露されました。翌年にレコード販売され、累計販売数70万枚を超えて大ヒットし、庶民の心に明るさと開放感をもたらしました。昭和28年(1953年)の第4回紅白歌合戦にて「東京ブギウギ」を初披露しました。今でも多くの歌手がカバーし、またテレビCM でも用いられるなど、時代・世代を超えて愛されています。
それ以降、「買物ブギー」「大阪ブギウギ」をはじめとする一連のブギソングをヒットさせ、次第に「スイングの女王」から「ブギの女王」へと呼称が変化しました。
(写真は東かがわ市歴史民俗資料館所蔵資料)
▲ 6.ブギの女王のふるさと凱旋公演
本写真は、昭和24年(1949年)4月15日に行われた引田町にあった朝日座(昭和45年(1970年)閉鎖)での凱旋公演時の記念写真です。公演後に撮影されたもので、場所は朝日座近くの池田写真館の座敷です。
本公演は引田町民一丸となって1から作り上げました。前売り券は完売し、当日は町長、警察署長、学校長なども足を運び、昼夜2回の公演で2500名の来場者が押しかけ、東京新聞にも取り上げられました。シヅ子はその日の2度の公演で得られた収益の全てを出生地である引田に全額給付しました。
(池田写真館での集合写真(旧池田写真館提供))
▲ 7.シヅ子の「俳優」としての一面
昭和14年(1939年)、「弥次喜多大陸道中」で映画初出演を果たし、日劇や有楽座を中心とした歌と踊りのエネルギッシュな舞台にも出演するなど、喜劇女優としての一面も持っていました。
また、昭和23年(1948年)に黒澤明監督・三船敏郎主演の「酔いどれ天使」でシヅ子は「ジャングル・ブギ」を歌い、以降数々のブギソングを生み出しました。昭和32年(1957 年)以降は併優業に専念することになります(注2)。シヅ子が出演したドラマ・映画は30本を超えます。
(注2):昭和32年(1957年)に芸名を笠置シズ子から笠置シヅチと改めます。なお、この展示では「笠置シヅ子」で統一しています。
(写真は東かがわ市歴史民俗資料館所蔵資料)
▲ 8.シヅ子の死去
シヅ子は昭和41年(1966年)から昭和55年(1980年)に放映された、当時の人気歌唱番組「家族そろって歌合戦」(TBS系列)の審査員としてご活躍されました。
昭和56年(1981年)シヅ子にガンが見つかり手術を行いましたが、その後も再発し闘病生活を送ります。そして昭和60年(1985年)3月30日、最愛の娘ヱイ子に看取られ息を引き取りました。
享年70歳。
笠置シヅ子と南原繁
笠置シヅ子(大正3年~昭和60年・1914~1985)
笠置シヅ子(本名:亀井静子)は、相生村黒羽(東かがわ市黒羽)で生まれました。
にざやかな歌と踊りで終戦直後の暗い時代に明るい光を投げかけ、「ブギの女王」と呼ばれて、歌謡界や映画界で活躍しました。彼女の後援会長は、同郷の政治学者・元東京大総長南原繁が務めました。戦後の文化は笠置シヅ子、政治は南原繁により牽引されました。
南原繁(明治22年~昭和49年・1889~1974)
南原繁は、相生村南野(東かがわ市南野)に生まれ、相生尋常小学校、白鳥高等小学校、大川中学校(現香川県立三本松高等学校)、第一高等学校、東京帝国大学(現東京大学)を卒業しました。昭和22年(1947)に東京大学総長に就任し、勅選貴族院議員や日本学士院長なども歴任し、戦後直後の日本の政治や教育の指導者として活躍しました。
▲ 1.相生地区の紹介
ここからは相生地区にゆかりのある人物や主な産業、そして現在の相生地区での活動を紹介します。
▲ 2.南原繁
南原繁は明治22年(1889年) 9月に香川県大川郡相生村(今の東かがわ市相生地区)に生まれました。明治40年(1907年)に香川県立大川中学校(現・香川県立三本松高等学校)卒業まで今の東かがわ市で育ちました。その後、旧制第一高等学校から東京帝国大学に進みました。政治学者であり、東京帝国大学教授として実績を残しました。さらに、終戦後まもなく、東京帝国大学の総長を務めました。昭和49年(1974年)没。
(写真は南原繁の銅像 ※この敷地の中にあります)
▲ 3.南原繁と相生地区
南原先生は故郷への想いが強く、多忙の中、故郷に帰ってきては、地元の相生小学校、三本松高校などで講演をしました。
相生地区には当時小学生で南原先生の話を聞いたことを憶えている人もいます。また、南原先生は歌人でもあり、その短歌が市内にもいくつか歌碑として残されています。
(写真の最前列左から6番目が南原先生(大字正数氏所有))
▲ 4.笠置シヅ子と南原繁
南原先生も笠置シヅ子もともに相生地区の出身で、家も近く、シヅ子の父親は南原先生の幼なじみでもありました。そのようなことから南原先生は笠置シヅ子の後援会長を務めたのだと思われます。このことからも南原先生の故郷への想いの強さがわかります。
(写真は笠置シヅ子が相生小学校の児童に送った手紙(東かがわ市歴史民俗資料館所蔵))
相生地区
▲ 5.東かがわ市相生地区
相生地区はもともと相生村としてあったのが、昭和30年(1955年)に合併して引田町になり、平成15年(2003年)に合併して東かがわ市になりました。相生地区の人口は1,989人です。(令和4年(2022年)3月31日現在)
相生地区からは江戸時代に銃砲や時計の開発・発明、坂出塩田の開発を行った科学技術者の久米通賢も出ています。
(写真は久米通賢肖像画(東かがわ市歴史民俗資料館所蔵))
▲ 6.和三盆
和三盆は江戸時代から伝統的に生産されている砂糖の一種で、香川県と徳島県が主な産地です。讃岐和三盆の中心的な産地が相生地区です。
その原材料であるサトウキビも東かがわ市で栽培されており、かって相生地区ではサトウキビ畑がたくさんありました。
和三盆は砂糖の一種でもあり、和菓子の名称でもあります。上品なやわらかい甘さの和三盆を提供するお店・工場も相生地区にあります。
(写真は三谷製糖、ばいこう堂のホームページより)
▲ 7.相生ふるさと協議会
相生ふるさと協議会は平成25年(2013年)4月に設立されました。相生地区8つの自治会や掃人会を中心に相生を元気に盛り上げるために、地域の人々が協力して様々な活動を行っていきます。相生コミュニティセンター(相生小学校跡地)の運営・管理のほか、レストラン、宿泊施設、直売所の運営をしています。また、イベントとして「相生ふるさと村まつり」を開催しています。
(写真は相生ふるさと協議会ホームページより)
▲ 8.相生古里庵
旧相生小学校前の古民家である旧永峰商店を改装して「ふれあいカフェ 相生古里庵」を平成 29年(2017年)4月にオープンしました。毎日昼食を提供しています。ここは月曜から日曜まで昼食を提供する団体が変わるという珍しい経営スタイルです。この平和保育園から歩いて1分なので、是非足を運んでください!
(写真は相生古里庵)
▲ 9.ザ・ビラ・アイオイ
一棟貸しの宿。東かがわ市相生小学校跡地にオープンしました。
2棟あり、相生地区の偉人にちなんで、TSUKEN(久米通賢)、SHIDUKO(笠置シヅ子)の名前がついています。2棟の間にはコワーキングスペースがあります。
中は、ワンルームマンションのような雰囲気です。ミニキッチンがあるので、友人同士、家族で、自由に料理することができます。また、屋外にはバーベキューができるスペースもあり。
ユニットバスとトイレを完備しているので、気兼ねなく過ごせます。
東かがわ市南野 204-1(旧平和保育所から徒歩1分です)
電話番号 0879-49-1737 携帯 090-1574-7030(大字まで)
チェックイン 16:00 / チェックアウト 10:00
料金1人1泊 3,000円 定員2名(2棟あり)
(写真はザ・ビラ・アイオイ)
▲ 10.ちょこっと市坂元
地元の採れたてお野菜、手作り小物、相生名産の和三盆を使った「和三盆かき氷」など、地元の様々な商品が並んだ直売所です。平成28(2016年)8月から営業しています。相生の魅力が詰まったお店に「ちょこっと」寄ってみて下さい。
時間:土日8時~13時、平日:10時~13時
定休日:毎週水曜日
住所:東かがわ市坂元 104(国道11号線沿いです)
(写真はちょこっと市坂元)
▲ 11.平和保育園
今皆さんがいるこの建物はかって「平和保育園」と呼ばれた保育園でした。昭和27年(1952年)に「相生保育所」としてここではなく西光寺で開所され、昭和43年(1968年)に今の場所に移転し、「平和保育園」に改称されました。この「平和保育園」の名付け親は南原繁先生です。また、南原先生は自作の短歌「幼らよ おのおのがいのちはぐく
みて おおきくなれよ いくさなき世を」を書かれた自筆の額を贈りました。多い時では定員が165名もあったのですが、子どもの数も年々減少し、平成31年(2019)に閉園となりました。
(平成15年(2003年)に平和保育所に改称されました)
今では相生地区のコミュニティセンターとして、新たに地域のために役立っています。(写真は平和保育所)
▲ 12.香川大学域学連携事業
香川大学の学生、教員が東かがわ市役所、地域住民の皆さんと東かがわ市の各地で地域活性化のために行っているプロジェクト。
平成25年(2013年)から相生地区で活動を始めました。相生古里庵では月1回、学生たちが昼食の提供をしています。
この笠置シヅチルームも相生ふるさと協議会の皆さんと一緒に作りました。
(写真は香川大学の学生と大字会長)
▲ 最後までご覧いただき、ありがとうございました。
東かがわ市には魅力がたくさんあります。
是非、また訪れてください。
笠置シヅ子の手紙「児童の鑑」
▲『笠置シヅ子』が相生小学校に送った手紙だそうです。
▲ 一枚目。
▲ 二枚目。
▲ 三枚目。
映画ポスターとか
▲ エノケン・笠置の『お染久松』
▲『銭なし平太捕物帖』
▲ こちらは、連続テレビ小説『ブギウギ』のポスターです。
▲ ポスターの台座は『井筒屋式 電気蓄音機』でした。さらっと置いてますけど貴重なものなのでは?
▲ おそるおそる開けてみました。
▲『笠置シヅ子』になれる衣装もありました。
ブギブギダンス映像室
▲ ブギ『ウギ』ダンスの間違いかな?
▲ プロジェクターで永遠に上映中です。
▲ 若い方がブギウギダンスを踊ります。
見学をしていると、ポスターを貼りに来た相生ふるさと協議会の会長の『大字 正数』さんからお話を聞くことができました。貴重なお話ありがとうございます。
現場からは以上です。それでは、またッ!!!