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四国四県から33棟の建物を移築復元した野外博物館『四国村ミウゼアム』訪問ッ!

四国四県から33棟の建物を移築復元した野外博物館『四国村ミウゼアム』を訪問してきましたッ!

▲ 場所はこちらです。

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『四国村ミウゼアム』到着ッ!

▲ 目的地の屋島に到着!後は直進するのみです!

▲ 駐車場が混雑しており、第二駐車場に誘導されました。交通整理の方、ありがとうッ!

▲ バイクを駐車し、徒歩で『四国村』入口へと向かいます。

▲ 途中に『屋島神社』の鳥居がありました。

▲ かなりの坂道を登るようです。こんど時間がある時に来てみようかな。

▲『村國四』じゃなくて『四国村』です。

▲『ここは、人智遺産』

▲『SHIKOKU MURA ミウゼアム』です!

四国村エントランス『おやねさん』

▲『おやねさん』全景はこんな感じです。

▲『おやねさん』平面図です。

▲ 入場チケットを買いに行きます。

▲ なにやら木を積み重ねている部分があります。

▲ 内側から見るとこんな感じです。

▲ 木のステンドグラス

この壁面の装飾、ベンチそして神棚は、2011年3月11日の東日本大震災の際に津波で流された宮城県南三陸町の遠藤重幸氏住宅の梁、柱などを生かしたものです。
江戸時代中期の古民家である遠藤家住宅、300年ほど前に私たちの祖先がふるった手斧やノミの跡に触れて、大震災の証人でもある木材に息づく命を感じてください。
同じ古材は、南三陸町の「南三陸 311 メモリアル」のベンチにも生かされています。
震災の記憶を風化させることなく、後世に伝えてゆきたいと思います。

▲ チケット売場へ向かいます。

▲ 入場料は、おとな 1,600 円です。イオンカードの提示で 200 円割引になりました。

ちなみに、大学生 1,000 円、高校生・中学生 1,000 円、小学生以下は無料です。

▲ なぜ四国村ミウゼアムはあるのか

四国村ミウゼアムは、約50,000mの敷地に四国各地にあった江戸~大正時代の建物33棟を移築した野外博物館です。カトーレック株式会社の創業者加藤達雄によって1976年10月に開設されました。汽船会社と陸運会社を経営していた加藤達雄は「歳を重ねて体力の衰えた船員やドライバーの為の第二の職場」として1975年4月にうどん屋を開業しました。それがここから間近に見える「わら家」です。その店舗として徳島県祖谷にあった江戸時代の古民家を移築しました。この場所で新しく葺き替えた茅葺屋根の美しさに加藤は魅了され、それを契機に古民家の収集を始めます。そして、長い年月を経てわら家に隣接するこの地で、ミウゼアムは今日の姿となりました。
このミウゼアムにある建物は、いずれも長年にわたって人が住み、使ってきた家々です。柱や梁そして壁にも、懸命に生きてきた人々の労苦、知恵そして祈りが染み込んでいます。「民家たちは何を訴えようとしているのか、その「こころ」を感じとってほしい」と加籐達雄は語っています。
屋島の自然に抱かれたこのミウゼアムで、ゆっくりと流れる時間や先人の息づかいを体感してください。
現代人が失ってしまった何かにふと気づくかもしれません。どうぞ心ゆくまでお楽しみください。

流れ坂(ながれざか)

▲『流れ坂』を登っていきます。ハァハァ。

彫刻家・流政作で、屋島に隣接する庵治の石切場から切り出された花崗岩を使った石畳の坂である。流は「茅葺の民家は女性的でおとなしい。荒々しい男性的なものがあった方が良い。」として「流れ坂」を考案した。坂の途中、「アーチ型橋③」の前に流の筆になる「流れ坂」の字が刻まれた石柱がある。

作家名 流政之
素材 庵治石
制作年 1976年

① かずら橋

▲『かずら橋』に到着。

平家の落人村としても知られる徳島県祖谷地方は急峻な渓谷が続く秋境である。深い谷間を流れる急流によって往来は困難を極め、人々はかずら橋を谷に架けた。
かずら橋とは山に自生する蔓草の一種であるシラクチカズラを編んで作った吊り橋で、江戸時代の文書によると祖谷には7本あるいは13本のかずら橋があったという。
現存するものは1本のみで、3年に一度架け替えが行われる。この橋は架け替えの技術保持者を招いて、実際の三分の二の長さで復元したものである。

もとの所在地 徳島県三好市祖谷
建築年代 再現(四年に一度架け替え)

▲ 注意事項。良い子は絶対揺らしちゃダメッ!

▲ いよいよ『かずら橋』を渡ります。

▲ 先客がおりました…。

▲ 先客が渡るまで、ジッと我慢の子です。

▲ いよいよ『かずら橋』を渡るんですが、横板の間隔が開きすぎでズボッっと踏み外しそう。

▲ なんとか渡りきりました。

② 小豆島農村歌舞伎舞台

▲ 芝居小屋と観客席です。

小豆島小部地区において、屋根が抜け数年でちてしまう状態だったものを移築した。屋内に残る墨書きから江戸時代の建物であったことがわかり、当時の構造材や造作材をよく残している。江戸時代には農民が演劇を楽しむための歌舞伎舞台が日本各地の農村に作られたが、この建物は現存する中でも規模が大きく整っている。舞台中央には直径約4.8mの鍋蓋式真棒廻り舞台があり、床下にその機構を覗くことができる。

もとの所在地 香川県小豆郡土庄町小部
もとの所有者 旧土庄町小部地区
建築年代 1863年以前
文化財指定等 高松市指定有形文化財

▲ 観客席はすり鉢状になっています。

▲ 芝居小屋はこんな感じ。

▲ 正月飾りで華やかです。

▲ 舞台下に人が入って舞台が回転できるようです。

▲ 華やかな飾りのそばに立て札がありました。

▲『舞台に上がらないでください。』

▲ 全景はこんな感じです。いつか芝居を観てみたいものです。

③ 丸亀藩御用蔵

▲『丸亀藩御用蔵』に到着。

元は丸亀藩の米蔵であり、後に海運業で活躍した丸亀市通町の豪商・大阪屋が米蔵として使用していた。丸亀港に続く入江に面して建てられていて、横付けされた船に4つの戸口から米を積み込んだ。移築に際して間取りを復原した他、資料館として活用するため一部増築した。外部には特徴的ななまこ壁、内部には積み上げた米から土壁を保護するための丸太材が縦に並ぶ独特の作りが見られる。

もとの所在地 香川県丸亀市通町
もとの所有者 大阪屋八代目•黑瀬純郎氏
建築年代 1796年以前
文化財指定等 香川県指定有形文化財

▲ マップがありました。まだまだ奥は広いですね。

▲ 丸亀藩御用蔵について

丸亀藩御用蔵は、藩の米蔵として、1796年(寛政8年)に黒瀬家によって建てられた。
江戸時代中頃、金毘羅信仰が流行し、金毘羅参詣客を乗せた多くの船が丸亀港に入港した。大阪と丸亀を結ぶ定期船は毎日行き来し、丸亀の町は参詣客らでにぎわった。
丸亀藩の財政は潤い、港を拡張した。当時の様子を伝える「金毘羅参詣絵図」には、港のシンボルだった「太助灯篭」とともに丸亀藩御用蔵が描かれている。この米蔵は「桁ゆき八間梁間四間」と大ぶりで、屋根は切妻造りの本瓦葺き、壁は添食塗りの仕上げで、ナマコ壁が立ち上がる。屋内に天井はなく、屋根裏がむき出してある。柱の間には狭い間隔で丸太を縦に埋め込んであり、積みあげた米で壁が傷まないように工夫されている。また、柱には米を数える際に書かれた「玉」の字の墨書きも残されている。蔵の内部は4室に分かれており、それぞれの室に扉がある。片庇のある扉の外は道路を挟んで海があり、米を出し入れし、運搬しやすい構造となっている。

それでは、中を拝見していきます。

日時計

▲『日時計』です。

▲ 日時計(灯台エリア)

100年以上風雨に晒されてきた鍋島灯台の日時計。
消灯や点灯の正確な時刻を知るために設置された。
明治時代に普及が進んだ機械式時計はまだ不正確で、週に一度は日時計の示す時刻に合わせる必要があったという。灯台エリアのクダコ島灯台退息所にも同様の日時計がある。

土台石

▲『土台石』です。

▲ 土台石(滝のエリア)

民家や蔵など建物の土台に使われた頑丈な花崗岩。
彫刻家・流政さはこの土台石を積み上げて「染が滝」を創作した。滝に落ちる水が湧き出てくる井桁状の「石組」も同じく流の作である。

醤油絞り袋

▲『醤油絞り袋』です。

▲ 醤油絞り袋(産業遺産エリア II)

もろ味を詰めて醤油を絞った袋。もとは柿渋で染めてあったが、長年使われて醤油色に。2棟の醤油蔵と麴室が移築されており、醤油づくりに関する道具と合わせ5577点が国の重要有形民俗文化財に指定されている。

楮蒸し

▲ 製造工程。

▲ 和紙ができるまでの説明です。

▲ 楮蒸し(産業遺産エリア I)

和紙の原料となる楮。楮を蒸して皮を剥すと「黒楮」に、黒い皮を削ると「白楮」となる。河野家住宅では楮蒸しの桶を展示、楮蒸し小屋では楮を蒸す映像を上映。

キツネ

▲『キツネ』です。

▲ キツネ(産業遺産エリア I)

サトウキビを石臼で搾汁する際に指を挟む事故が頻発し、それを防ぐための安全用具。キツネの耳のような形状が名前の由来。どのように使われたかを知るには宮崎家の砂糖しめ小屋へ。映像も上映されている。

サヌカイト

▲『サヌカイト』です。叩いてみたけれど良い音が出なかった。なんで?

▲ サヌカイト(アートエリア)

坂出市の限られた場所で採れる輝石安山岩。ドイツの学者バインシェンクによって「讃岐」にちなんで命名された。高く澄んだ音がするため別名は「カンカン石」。アートエリアの茶堂には、はるかに大きなサヌカイトを展示。

▲ 四国村の立体模型です。

小屋組(下木家住宅)

▲ 小屋組の写真がありました。

▲ 小屋組(下木家住宅)

合掌づくりの小屋組の部材は小屋貫がカンナがけ以外は全て手斧(ちょうな)仕上げである。竹や縄、杉皮などが適材適所で使われており、移築の際に忠実に再現されている。

▲ 移築

四国村ミウゼアムに移築された民家は、歴史的に貴重な資料である。建物2棟が国の重要文化財、醤油づくりに関連する建物3棟と用具5,577点、砂糖づくりに関連する建物3棟と用具937点が国の重要有形民俗文化財に指定されている。他の民家も県指定、市指定、登録有形の文化財のいずれかに該当するものが殆どである。

▲ 茅葺き屋根の保存

四国村ミウゼアムの古民家では、時々いろりに火入れを行う。いろりやかまどで焚く薪の煙が、屋根の内側を燻煙することで、防虫効果があるからだ。また、室内の空気が上昇し、還流することで適度な乾燥が保て、効果的なカビ・防腐対策も行える。

※中石家のいろりで火入れを行う様子

▲ 下木家の移築のプロセス

下木家住宅は、標高1,000m、剣山の深い山間から移築された。重機の乗り入れも困難な場所であり、解体・搬出作業の殆どが人力によって行われた。四国村ミウゼアム搬入後は、大きな梁や柱から床板など元あった通り正確に復元された。

① 調査と記録作成
解体前に写真撮影、復原調査、破損状況調査を行い、建物の状態を記録する。

② 番号付け、解体
解体する部材のすべてに番号札をつけ、調査記録を行いつつ解体する。

③ 運搬
車が入れない山中にあっては、ワイヤーロープを架け渡し、運び出した。

④ 組立て
部材につけた番号通りに組み立て直す。
傷んだ部材は補修や取り替えを行う。

⑤ 仕上げの復原
土壁や茅葺はもとの材料に不足分は新材を混ぜて復原する。建具や造作も同様に再現。

⑥ 方位や地形
もともとあった場所の地形や方角に近くなるよう、建物の周囲も整える。

▲ メッセージ

四国の民家は、四国という地方の身分証明書だと私は思う。なぜならそれらは、四国だけにあって四国以外の地方にはないものだからである。しかし、それらはただあるだけではない。四国の人たちが、長い時間をかけ自らの手で創りあげてきたものなのである。それゆえにそれらの民家が現代生活に適応できなくて人が住まなくなり、どこかへ移すより他に生きる道がなくなってしまったとしても、四国の民家は四国を離れてはいけないのである。

古民家研究の第一人者 伊藤ていじ

小豆島の猪垣(ししがき)

▲ 壁のようになっているのが『小豆島の猪垣(ししがき)』です。

小豆島には鹿・猪・猿といった野生動物が多く、農民は農作物の被害に苦しめられてきた。そこで畑の周辺を囲う垣根を石や土で築いたものが「猪垣」である。小豆島全体では延べ120kmの猪があったという。小豆島三都半島の二面長崎地区に現存する猪垣を復元したもので、粘土に松葉を混ぜた上で作る形式は大変珍しい。なお四国村ミウゼアムには他に徳島県の脇町と旧一宇村の猪垣を再現しており、それぞれの地域で得られる材料を使っている。

もとの所在地 香川県小豆郡小豆島町
建築年代 再現

④ 山下家住宅

▲『山下家住宅』です。

東讃岐の農山村から移築した住宅である。江戸時代後期の讃岐平野では茅葺屋根の軒先に瓦葺の庇を付ける形式が多いが、この家には茅葺を軒先まで葺きおろす「つくだれ」という工法が見られる。内部は周囲八間と呼ばれた小規模なもので、半分は農作業用の土間であり、残り半分で大家族が寝食を共にした。江戸時代後期の東讃岐の典型的な農家の住空間を留めた貴重な建物である。

もとの所在地 香川県東かがわ市五名
もとの所有者 山下増夫氏
建築年代 1700年代末頃
文化財指定等 香川県指定有形文化財

▲ 側面からの写真です。

▲ 入口には正月飾りがありました。

▲ 土間はこんな感じです。

▲ 居間はこんな感じ。

▲ 板の間はこんな感じです。

▲ 羽釜と釜。

▲ 飯畚とお櫃。

▲ 箱膳です。

▲ 裏口はこんな感じです。

⑤ 森野家住宅風呂便所

▲『森野家住宅風呂便所』です。

徳島県旧脇町の農家から移築したもので、隣接する山下家住宅とは別個である。かつては風呂・便所が住宅の外にあったことを示す。切妻造り瓦葺の建物で、左手の便所は下地窓をつけるなど数寄屋風の造りが見られ、遊び心が感じられる。右手の風呂は土台を煉瓦積とし、側面から伸びる煙突は陶管とするなど、農山村にも新しい素材が入ってきたことがわかる。

もとの所在地 徳島県美馬市脇町
もとの所有者 森野清一氏
建築年代 1920年頃
文化財指定等 登録有形文化財

▲ トイレです。

▲ お風呂です。

▲ ここに火をくべてお風呂を沸かします。

▲ 全景はこんな感じ。

⑥ 石畳広場

▲『石畳広場』の終点。

彫刻家・流政之作の「流れ坂」は入口から続き、ここが終点である。ここからは大きな屋根の河野家住宅や砂糖しめ小屋、屋島南嶺を望むことができる。四国村ミウゼアムを代表する景色の一つである。広場に置かれた大きな石は「残石」と言い、豊臣季吉による大阪城築城のために切り出されたが、船積みされずに小豆島に残っていた。
秀吉配下の有力武将・福島正則の場(石切場)であったという。

作家名 流政之
素材 庵治石
制作年 1976年

▲ 切り出された大きな残石。

なでうさぎ

▲『なでうさぎ』です。

▲ なでうさぎ

むかしむかしのおはなし
四国村にはひとりぼっちのうさぎが住んでおりました。
毎日会うのはミミズとイノシシくらい。
ある日穴から出てお花畑でモグモグしていると、見たこともない大きな生き物に会いました。指先が五本に分かれていて、二本足で立っています。何より驚いたのは体に毛が生えていないのです。
すると、五本に分かれた指がうさぎに近づいてきました。
怖くなったうさぎは目をギュッとつむってじっとしていました。
なんてことでしょう。大きな生き物はうさぎの背中を優しく撫でたのです。しばらく撫でた後、大きな生き物は出雲国に行ってしまいました。うさぎがそっと目を開けると、そこには誰もいません。うさぎはもう一度撫でてもらいたくなっちゃって、四国村中を探しました。
それからというもの、うさぎは穴から飛び出して、四国村の一番目立つところで、撫でてもらうのを待っているそうです。

⑦ 稲田家土蔵

▲『稲田家土蔵』

この蔵は農家の道具蔵であったもので、外壁の板張りの下は土蔵、その上に茅葺切妻の屋根を置く「置き屋根」という工法が特徴である。木造家屋にとって火災は大敵であり、近世までは延焼を防ぐために火事場周辺の建物を取り壊すことが多かった。置き屋根は、火災の際に屋根を外すことができ、蔵本体への延焼を防ぐことができた。木製の戸枠や庇、外壁の板もすべて取り外すことができる。

もとの所在地 愛媛県上浮穴郡久方高原町
もとの所有者 稲田浦一郎氏
建築年代 1870年頃
文化財指定等 登録有形文化財

⑧ 河野家住宅

▲『河野家住宅』

深い谷の奥まった急斜面に建っていた。土間に立つと手前にチャノマ、奥にザシキをとる横二間取りは、南伊予地方の民家に多く見られる特徴で、斜面沿いの横長の土地に適している。鋸がなく板材が貴重であった時代は、成長の早い竹をすのこ状に敷くことが多かったが、その珍しい形式を残している。土間には和紙の原料となる楮を蒸す釜と、そこに被せる大きな桶が吊り下げられており、これも貴重な資料である。国の重要文化財。

もとの所在地 愛媛県喜多郡内子町
もとの所有者 河野喜十氏
建築年代 1700年代前半
文化財指定等 国指定重要文化財

▲ 内部はこんな感じ。奥に着物が干してあります。

▲ ここはトイレかな?

▲ 中に入ってみます。

▲ 床が竹で組まれている。座ると痛そう。

▲ 高い天井と和紙を作る釜があります。

▲ さらば『河野家住宅』

ちから石

▲ 五つ並んだ『ちから石』

若者たちの力だめし ※落としたり腰を痛めないようにご注意ください

錦石 94kg
正二八貫 105kg
二五貫 94kg
二四貫 90kg
刻印なし 45kg

▲ 腰を傷めそうなので、持ち上げるのはやめました。

⑨ 冨木田家砂糖しめ小屋

▲『冨木田家砂糖しめ小屋』

江戸時代後期、砂糖は讃岐の特産品であり、塩・綿と並び讃岐三白と称された。讃岐平野にはサトウキビ畑とそれを搾る砂糖しめ小屋が点在していた。円形の平面と円錐形の芽葺屋根が特徴で、現存するものは四国村ミウゼアムの2棟のみである。もとは冬の搾汁の時期だけに建てた仮設の小屋で、組立・解体が容易な造りであった。柱に書かれた番号にその名残が見られる。屋根は唐傘のような造りで、頂部にはヒヤシガメを被せている。国の重要有形民俗文化財。

もとの所在地 香川県坂出市青海町
もとの所有者 冨木田善一氏
建築年代 1800年代後半
文化財指定等 国指定重要有形民俗文化財

▲ 円形の建物です。

▲ 内部はこんな感じ。

⑩ 上原家砂糖しめ小屋

▲『上原家砂糖しめ小屋』

このような四角い砂糖しめ小屋は地元の有力者が建てたもので、そこに小作人を集めて砂糖作りを行っていた。
小屋の形や格式は屋敷内の他の建物と合わせて作られた。その小作人達が独立し、各地に赴いて砂糖しめ作業を行うようになると、作業の時期だけ仮設の小屋を作るようになった。それが組立・解体が容易な円形の砂糖しめ小屋である。のちに円形の砂糖しめ小屋も常設化され「冨木田家砂糖しめ小屋⑨」や「宮崎家砂糖しめ小屋⑫」が残った。

もとの所在地 香川県東かがわ市湊
もとの所有者 上原義秋氏
建築年代 1800年代末頃と推定

⑪ 六車家釜屋

▲『六車家釜屋』です。

砂糖しめ小屋でしぼったサトウキビの汁を、3つの釜で煮詰めて、白砂糖の前段階である白下糖をつくり、さらにこれを精製し白い砂糖が作られました。その工程の中から讃岐特産の和三盆糖も生まれました。

年代 1800年代末頃(明治時代中期)
旧所在地 香川県東かがわ市湊
指定区分 国指定重要有形民俗文化財

▲ 火を入れる穴があります。

▲ 砂糖しめ小屋で搾った生汁を煮詰める

砂糖しめ小屋で搾汁した生汁をこの釜場で煮詰めていきます。
左奥の荒釜から中釜、揚釜と徐々に温度を上げ純度を高めます。

▲ 蒸桶(むしこが)です。

⑫ 宮崎家砂糖しめ小屋

▲『宮崎家砂糖しめ小屋』

香川県坂出市にあった小屋で、あとひと月で取り壊されるところを譲り受け移築した。内部には3つの石臼があり、腕木を牛に引かせて回転させ、サトウキビを搾った。
特徴的な丸い形は、牛の円運動に合せたもので、内部の柱は牛の横腹で擦り減っている。搾り作業は石臼を挟んで2人が座って行い、一方から送って搾ったものを反対側から再度送ることで余すことなく搾った。砂糖しめ小屋2棟と釜屋、用具937点が国の重要有形民俗文化財。

もとの所在地 香川県坂出市林田町
もとの所有者 宮崎保氏
建築年代 1865年頃
文化財指定等 国指定重要有形民俗文化財

▲ 内部はこんな感じ。

▲移築前の砂糖しめ小屋(香川県坂出市)

脇町の猪垣

▲『脇町の猪垣』

四国村ミウゼアムに復元された3つの猪垣(④⑭㉗)のうちの1つで、徳島県旧脇町の山林にあったものである。
鹿や猪から畑を守るために石を積み上げて囲っていた。
猪垣の所々に陥穴をつくり、畑に入ろうとする猪を生け捕りにした。その肉は「薬喰い」といって食べた。

もとの所在地 德島県美馬市脇町
建築年代 再現

⑬ 左甚五郎の墓碑

▲『左甚五郎の墓碑』

左甚五郎は江戸時代初期の彫物の名手で、日光東照宮の眠り猫や東京上野東照宮の龍がその作品と言われる。その作と伝わる彫物は全国に多数存在するが、甚五郎が実在した人物かどうか定かではない。日本歴史辞典には高松に没したと記されている。この墓碑や灯篭は、高松市番町の地蔵寺にあったものを、改修を機に四国村ミウゼアムに移した。

もとの所在地 香川県高松市番町(地藏寺)
もとの所有者 地蔵寺
建築年代 不明

四国村ギャラリー

▲『四国村ギャラリー』入口です。

▲ 石畳を進んで入場します。ちなみに料金は無料です。

▲ 四国村ギャラリー

四国村創設者である加藤達雄は、若い頃一人の新聞記者と親しくなり讃岐の古寺を訪ね歩きました。仏像に興味を抱くようになった加藤のところに、ある目知人が小さな金銅仏を持ってきました。その鑑定を著名な彫刻家に頼んだことをきっかけに仏像を美術品として見るようになりました。
やがて、中国美術の世界的なコレクターだった肖像画家の薫陶を受け、またペルシャの研究で知られた東大教授に同行してテヘランに出かけたり、様々な出会いを重ねて広く美術品を収集しました。その収集に注いだ情熱は、四国の古民家や古民具を集めた想いと共通するものがあるかもしれません。
2002年、この場所に安藤忠雄氏設計のギャラリーが完成し、加藤は「様々な縁でこの四国に来てくれた美術品を多くの方にみていただくのも、地域に根差した博物館の役目」と考えて寄贈。一人の経営者が愛した、様々な地域の、また様々な時代のコレクションをどうぞお楽しみください。

加藤達雄 中国・雲崗にて

▲ 何やら黒いオブジェがあります。

▲ 流政之氏の『夜の手ざわり』です。

▲ 聖ヨハネ像。

▲ 猪熊弦一郎氏の作品。

▲ 讃岐和三盆。

▲ ヒカキ。

▲ 左から、手桶と砂糖をしぼる布。

▲ アラレケンド。

▲ 左から、スマシオケ、アクフネ、ブショウボウキ。

▲ 左から、オモシイシ、ヒシャク。

▲ キツネ。

▲ クルマイシ。

▲ シメグルマ。

▲ 細い廊下を通って『水景庭園』へ向かいます。

水景庭園

▲『水景庭園』へ続く廊下。

▲『水景庭園』が一望できるエントランスです。

しばらくは、キャプション無しでお楽しみください。

▲ 以上、『水景庭園』でした。

⑯ 茶堂「遊庵」

▲ 茶堂『遊庵』です。

「茶堂」は村の境や峠に設置された小さなお堂で、かつては四国の村々に広く分布していたが、現存するものは非常に少ない。正面に仏様を祀り、三方は吹き抜けで、信仰の場であった他、通行人にお茶を振舞ったり、四国遍路の休み場となった。このお堂は土佐から伊予へ越す龍王街道にあったものである。地蔵菩薩は彫刻家・流政之作。四国村開村式で瀬戸内寂聴尼によって開眼され、堂は「遊庵」と命名された。

もとの所在地 愛媛県北宇和郡鬼北町
もとの所有者 上町地区
建築年代 1853年以前
文化財指定等 高松市指定有形文化財

▲ 瀬戸内寂聴と四国村の開村

村開きの日、雲の多い日であった。天気を気遣う加籐達雄に、瀬戸内はこう語った。「大丈夫よ、加藤さん。出家前の私の名前は“瀬戸内晴美”だから」と。

カンカン石

▲『カンカン石』です。こちらは澄んだ良い音がしました。

香川県綾歌郡国分寺町
石 宮脇磬子氏
吊台 山田一美氏
寄贈

この石はたたくと金属質の澄んだ音色がするので、カンカン石とも呼ばれている。
高松市の西方にある、国分台だけに産出する珍しい岩石で、明治二十四年(一八九一)ドイツの地質学者バインシェンクによって讃岐岩質安山岩「サヌカイト」と命名された。
古代中国に、馨という、石の板を吊して鳴らす打楽器があったが、明治末期、国分寺町在住の仏教音楽家長尾猛師は、大小のサスカイトを並べて石琴をつくりあげた。

▲ 直角に曲がった石畳を進みます。

雨降使(アメフラシ)

▲ 雨降使(アメフラシ)がいました。

▲ 雨降使(アメフラシ)

むかしむかしのおはなし
讃岐国は雨が降らず人々は日々、水不足でこまっておりました。それを見ていた神さまは日本中のアメフラシを集めてこう言いました。「讃岐国に雨が降るように、どうにかしておくれ」アメフラシたちは毎日天にお祈りをしました。そのおかげで讃岐国はたくさんの雨が降るようになりました。
するとこんどは雨が止まないので、とうとう洪水がおきてしまいました。
雨を降らせることは得意だけど、止めることはできません。アメフラシたちはしょぼしょぼと海に戻っていきました。
それからというもの、アメフラシは日照りが続くと屋島に登り、雨が降ったら海に戻ることにしたのです。海岸近くにアメフラシがいるのは、すぐに雨乞いを始められるようにしているからと言われています。

⑰ 大久野島灯台

▲『大久野島灯台』です。

▲ 正面から見ると、奥に窓があるのがわかります。

大久野島は広島県竹原市の沖合に浮かぶ周囲4kmの小さな島である。この灯台は1893年島の南端に建設され、翌年初点灯した。光源は当初は石油であったが、1925年にはアセチレンガスに、1936年には電力に変わった。1992年老朽化のため役目を終えた。花崗岩の切石積の上には鋳鉄製の塔器が載る。なお大久野島は毒ガス製造の島でもあり、1929年から1945年まで軍事機密として地図から消されていた。

もとの所在地 広島県竹原市忠海町(大久野島)
もとの所有者 第六管区海上保安本部
建築年代 1893年

▲『初照 明治二十七年 五月』と書いてあります。

▲ 灯台の中には螺旋階段がありました。登ってみたかった。

▲ 寄贈された『いかり』です。

⑱ 江埼灯台退息所

▲『江埼灯台退息所』です。

▲ 正面からもパチリ。

江戸末期、条約により灯台の設置が義務付けられ明治政府が整備した。初期の灯台は設計も運用も「雇い外国人」であった。灯台退息所とは、常駐管理灯台守の宿舎のこと。江崎灯台は淡路島の北端にし、神戸港開港に併せて設置された日本で8番目の灯台で、設計は日本の灯台の父と言われる英国のR・H・ブラントン。外国人灯台守の退息所は本格的造りで、暖炉と煙突が見られる。1995年の阪神・淡震災で倒壊したものを移築・復原した。

もとの所在地 兵庫県淡路市野島江崎(淡路島)
もとの所有者 六管区海上保安本部
建築年代 1871年
文化財指定等 登録有形文化財

▲ 室内はこんな感じです。まだ使えそうですね。

▲ タンスが置いてあります。

▲ 暖炉のある部屋では資料映像が流れていました。

▲ 寄贈された『いかり』です。

⑲ 鍋島灯台退息所

▲『鍋島灯台退息所』

香川県坂出市沖の小島である鍋島に築造されたもので、設計は英国の技師 R・H・ブラントン。鍋島に近い与島で切り出された花崗岩を用いた石造建築に屋根は和小屋組みの桟瓦葺とした、和洋折衷の建物である。正面にはトスカナ式の列柱によりベランダが設けられ、周囲には雨水を溜める水槽や倉庫が設置されている。1955年頃まで本来の退息所として、その後は通信施設として使われた。灯台は1991年に無人となったが、現在も使われている。

もとの所在地 香川県坂出市与島町(鍋島)
もとの所有者 第六管区海上保安本部
建築年代 1873年
文化財指定等 登録有形文化財

▲ 門松がお出迎え。

▲ 内部はこんな感じです。ピアノがあります。

▲ こちらにもピアノが。

▲ テーブルとタンス。

▲ まだ住めそうです。

⑳ クダコ島灯台退息所

▲ 立派な門です。

クダコ島灯台の初点灯は1903年で、江崎灯台や鍋島灯台から時代は少し下り、その頃には灯台守も日本人となっていた。外壁はレンガ造にモルタル仕上げだが、内部は押入付きの畳部屋が配されるなど和風の要素が強く、灯台建築の変遷を知るための貴重な資料である。隣接する別棟は中央部に防火壁を立ち上げ手前が風呂場、奥が倉庫(現在はトイレとして利用)であった。灯台の無人化によって使われなくなり、移築した。

もとの所在地 愛媛県松山市怒和(クダコ島)
もとの所有者 第六管区海上保安本部
建築年代 1903年
文化財指定等 登録有形文化財

▲ 入口前には池があります。

▲ 洋風な外観から一変して、中は和風になっています。

▲ 完全な和室ですね。

クダコ島灯台退息所 別棟

▲『クダコ島灯台退息所 別棟』

▲ ⑳ クダコ島灯台退息所 別棟

もとの所在地 愛媛県松山市元怒和(クダコ島)
もとの所有者 第六管区海上保安本部
建築年代 1903年
文化財指定等 登録有形文化財

▲ 現在はトイレとしても利用されています。

▲ お風呂もまだ使えそう。

クダコ島灯台退息所 日時計

▲ クダコ島産台退息所の一連の施設として、表門などとともに移設された。

▲『見晴らし坂』を下って進みます。

猪熊の杜(2023年4月15日植樹)

▲『猪熊の杜』

高松市出身の画家・猪熊弦一郎は 1930年代に小豆島からオリーブの苗木を持ち帰り、東京の庭に植えました。オリーブは大きく育ち、沢山の実をつけ、2階の窓からの眺めはまるで森の中に居るようだったといいます。
猪熊も「毎日見ていますが、ふるさとがそばにあるという気持ちです」と語っています(1991年四国新聞)。
ところが、1993年に猪熊が亡くなるとこのオリーブの樹も枯れてしまいます。その後、切り株から生えてきだ“ひこばえ”を小豆島で挿し木にして育てた方から、ご厚意で苗を分けていただきました。
猪熊弦一郎と四国村との関わりに因んで、この場所を「猪熊の杜」と名付けました。

1991年11月25日四国新聞掲載

㉑ 楮蒸し小屋

▲『楮蒸し小屋』

高知県や愛媛県の山間部では和紙の原料となる楮や三椏の栽培が盛んであった。小屋の中央に大きなカマドを築き、蓋となる大桶を上げ下げする装置をもつ。楮や三椏を釜に立てて桶を被せて蒸し、皮を剥いで和紙の材料とした。四国村ミウゼアムでは「河野家住宅⑨」に同様の蒸しの装置がある。茅葺の屋根に加えて、外壁も断熱性のある茅壁としている。寒さが厳しい土地の建物の特徴が見られる。

もとの所在地 高知県高岡郡梼原町
もとの所有者 白石登志氏
建築年代 1920年頃
文化財指定等 登録有形文化財

▲ 内部には大きな釜と蓋がありました。

▲ 和紙の製造工程。

▲ 和紙ができるまで

楮(こうぞ)の木は樹皮の繊維が太く長いため、強い和紙の原料となります。
その樹皮を採取する最初の工程として、伐採された楮を束にし桶をかぶせ釜の上で蒸し上げ、樹皮を剥しやすくします。

▲ 楮(こうぞ)の木が集められています。

▲ 出口から撮影。

▲ まるで、ぽつんと一軒家のようです。

㉒ 下木家住宅

▲『下木家住宅』

徳島県最高峰剣山の北斜面にあった山村農家で、斜面に沿った横二間取りである。根本が湾曲した木材の架構(チョウナ梁)や、上屋梁・下屋梁に1本の柱を貫通させる「コキバシラ・オトシコミ構法」により下屋を室内に取り込む。この方式は一宇村の大工が元祖と言われる。仏壇の前の床は小さく開き、家人が死んだとき、湯灌の水を床下に流し、魂が家の中に留まることを願った。棟札により建築年代が明らかで、伝統的な姿をよく保存する。国の重要文化財。

もとの所在地 徳島県美馬郡つるぎ町
建築年代 1781年
もとの所有者 下木栄太郎氏
文化財指定等 国指定重要文化財

▲ 内部はこんな感じです。

▲ イモ等を保管する穴があります。

▲ 薄暗い室内です。

▲ 見つけられなかったけど棟札があるそうです。

▲ こちらの部屋は光が入って明るいです。

㉓ 石組

▲ 水が流れる『石組』です。

この水が流れ落ちる染が滝と同様に古い民家の土台石を組み合わせて作られている。彫刻家・流政之作。

▲ 家屋から池に流れる水路。

㉔ 添水唐臼

▲『添水唐臼』

「添水」はシシオドシとも言い、竹筒に水を引きいれ、溜まる水の重みで反転した竹筒が石などに当って音を鳴らし鳥獣を追い払う装置。「唐臼」は棒の一端に杵をつけ、もう一端を足で踏み、テコの原理で臼をつく装置である。
この2つを組み合わせ水力によって唐臼を動かすものが「添水唐臼」で、少ない水量でも臼をつくことができた。これは1955年頃まで徳島県旧一宇村に残っていた唯一の遺構を復元したものである。

もとの所在地 徳島県美馬郡つるぎ町
建築年代 再現

一宇村の猪垣

▲『一宇村の猪垣』

四国村ミウゼアムに復元された3つの猪垣のうちの1つで、吉野川の南に位置する徳島県旧一宇村にあったもの。鹿や猪から畑を守るために周囲を板石で囲み、侵入を防いだ。緑泥片岩という板状に割れやすい石は西日本を横断する中央構造線南側の地層に見られ、徳島では「青石」と呼び、吉野川の南岸に多く分布する。その地域で手に入る材料を使って作られたことがわかる。「下木家住宅㉔」周辺の石積みも同じ青石を用いる。

もとの所在地 徳島県美馬郡つるぎ町
建築年代 再現

㉕ 久米通賢先生旧宅

▲『久米通賢先生旧宅』

平賀源内とともに讃岐を代表する江戸時代の科学者であった久米通賢の住宅である。測量術に優れ、軍船や大砲、撃発式鉄砲ピストル、扇風機なども発明した。高松藩に登用されたのち、坂出塩田を大規模なものに開発した功績は大きい。江戸時代、塩は讃岐の特産品として讃岐三白の1つに数えられ、坂出塩田は全国の塩の生産量の半分近くを占めた。移築のため解体した際、天井裏からは測量器具や大砲の鋳型が発見された。

もとの所在地 香川県東かがわ市篤宿
もとの所有者 久米美代江氏
建築年代 1800年代
文化財指定等 登録有形文化財

▲ 立派な石畳。

▲ 広々とした和室です。

▲ 屏風が飾られています。

㉖ 中石家住宅 納屋

▲『中石家住宅 納屋』

納屋は農機具や農作物を収納する小屋で、建物の左半分の床・天井が張られた部分がこれにあたる。加えて、この中石家のものは地形の段差を生かした造りが特徴的で、半地下となった右半分を畜舎とし、牛を飼っていた。
牛は西日本を中心に農耕用の家畜として飼われていたもので、かつては農家の貴重な財産でもあった。納屋は農家の生活に欠かせないものであり、主屋とともに一連の建物として見ることができる貴重な資料である。

もとの所在地 徳島県三好市東祖谷
もとの所有者 中石一美氏
建築年代 1900年前後
文化財指定等 高松市指定有形文化財

▲ ここで牛を飼っていたみたい。

㉖ 中石家住宅 主屋

▲『中石家住宅 主屋』

四国村ミウゼアム入口の「かずら橋②」や「わら家㊼」と同じ、徳島県祖谷地方の山村農家で、主屋・隠居屋・納屋の三棟が移築された。外壁は土壁を風雨から保護するために縦羽目に割って叩き延ばした「ひしゃぎ竹」によって覆われている。これを祖谷地方では蓑壁と呼ぶ。内部は「下木家住宅㉔」と同様に梁に穴を開け柱に落とし込む「コキ柱」が用いられている。中央に囲炉裏が切られているのも寒い祖谷地方の特色である。

もとの所在地 徳島県三好市東祖谷
もとの所有者 中石一美氏
建築年代 1700年代後半
文化財指定等 高松市指定有形文化財

▲ 囲炉裏があります。

㉖ 中石家住宅 隱居屋

▲『中石家住宅 隱居屋』

徳島県祖谷地方では古くから隠居制度が発展しており、長男夫婦が結婚すると親夫婦は隠居して、隠居屋に移り住んだ。隠居屋は主屋とほぼ同じ形式であるが、規模はやや小さく、格式も低く作られている。今で言うバリアフリーのように、敷居が低いのも特徴である。柱や造作にはチョウナ削りの跡が見られる。主屋・隠居屋・納屋の三棟が等高線に沿った細長い敷地に並列する配置は、かっては四国地方山間部で多く見られた。

もとの所在地 徳島県三好市東祖谷
もとの所有者 中石一美氏
建築年代 1900年前後
文化財指定等 高松市指定有形文化財

▲ 正月道具が並べられていました。

▲ 三体のご隠居猿

▲ ご隠居猿

むかしむかしのおはなし
瀬戸内海に猿がたくさんいる島がありました。
そこでは誰がお山の大将になるかと毎日競争が起きていました。
その陰で、聞いに疲れて引退を決意した三匹の猿がおり、どこか別の山で静かに暮らしたいねと話しておりました。
ある日、そのうちの一匹が遠くに屋根のようなお山がある島を見つけました。しかし、その前には大きな海があります。お猿は意を決して海に飛び込みました。穏やかな海にぷかぷか浮かびながら、その島に流れつきました。そこには素敵なお家がたくさんあって、みんな楽しそうにしています。
四国村の縁側でのんびり日向ぼっこしてる
猿がいたら、瀬戸内海を泳いで渡った猿かもしれません。

二〇二二年四国村

㉗ 染が滝

▲『染が滝』

染が滝は、かつて民家の柱を支えていた花崗岩の土台石を用いた、彫刻家・流政之の作である。四国村ミウゼアムを開設した加藤達雄と流は1923年生まれの同い年で、開設に向けて水割りを飲みながら議論を重ねた。民家の移築にあたり、流はそれぞれの建物が干渉しないよう、一棟ごとにガラッと景色が変わる方が良いとアドヴァイスした。そして穏やかで静かなイメージの民家群に対してゴツゴツとして荒々しい「流れ坂」、動きと音の「染が滝」を配した。

作家名 流政之
素材 庵治石
制作年 1976年

▲ 階段を登って移動します。

造り酒屋の井戸

▲『造り酒屋の井戸』

もとの所在地 香川県さぬき市志度
もとの所有者 玉木酒店
建築年代 1891年

流政之作「流れ坂」と「染が滝」

「流れ坂」と「染が滝」は、日本を代表する彫刻家であり、作庭家である流政之の作品である。加藤達雄が四国村を構想している際、流は「それぞれの建物が干渉しないように、一棟ごとにガラッと景色が変わる方が良い」とアドヴァイスした。
その後、「茅葺の民家は女性的で静的なイメージだ。ごつごつした男性的なものがあってもいい」と『流れ坂』を考案、また「音が出るものが欲しい」と『染が滝』を創作した。

流政之について

1923年長崎生まれ。戦後、陶芸や装丁などの芸術活動を経て1955年頃、彫刻作品に打ち込み始める。世界で高い評価を受ける中、1966年、香川県庵治半島に自身のアトリエを建設。1975年、ニューヨークワールドトレードセンター「雲の砦」を制作。親交のあった加藤の古民家博物館の創設に共鳴し、四国村開村に協力を惜しまなかった。

左に設置されている擬宝珠に彫られた「ながれ坂」の文字は、流政之の自筆である。四国村開村時に作られたもので、裏には「一九七六流作」と彫られている。

㉘ 三崎の義倉

▲『三崎の義倉』

義倉とは飢饉や災害に備えて穀物を貯蔵する倉で、この倉は1940年頃まで機能していた。1819年に高知県旧三崎村の大庄屋・沖市左衛門が建てたとされるが、明治期の再建の可能性もある。毎春に蓄えた種もみや飯米を貸付け、秋の収穫時に利子分を加えて徴収した。内部は左右二室で、米俵等で壁が傷まないように板壁の内側に丸太材が密に配されている。土佐清水市の指定文化財であったが維持が困難となり、四国村ミウゼアムに移築した。

もとの所在地 高知県土佐清水市三崎
もとの所有者 土佐清水市
建築年代 1819年
文化財指定等 登録有形文化財

㉙ 福井家石蔵

▲『福井家石蔵』

道路拡幅工事によって撤去されるところを、地元の人達が何とか保存しようと働きかけ、「アーチ型橋③」「金毘羅灯篭㊵」とともに四国村ミウゼアムに移築した。落成式では「驚ノ山石材のシンボルとして、四国村に永久保存され、全国の人に紹介されることはまことに感激の至り」と謝辞が述べられた。鷲ノ山産の石材は古墳の石棺としても使用され、石舟地区の名前の由来となった。建物にはほとんど狂いがなく、卓越した石工の仕事である。

もとの所在地 香川県高松市国分寺町新名
もとの所有者 旧国分寺町教育委員会
建築年代 1800年代末頃
文化財指定等 登録有形文化財

▲ 現在はミニシアターとして使われています。

㉚ アーチ型橋

▲『アーチ型橋』。まさか、この橋を潜って次の場所に行くとは思わなかった。

昔の金毘羅街道沿いにあったもので、道路拡幅工事に伴い撤去されるところを四国村ミウゼアムに移築した。かつて石の里として栄えた香川県旧国分寺町の鷲ノ山産の石材を用いたアーチ構造で、頂部の楔石の下面に「明治三十四年十二月築之 兎子尾与次郎・米吉」との銘が刻まれている。2つの楔石には鯉の滝登りと唐獅子牡丹の彫刻があり、当初彩色していたと記録に残る。このような例は全国でも珍しい。

もとの所在地 香川県高松市国分寺町新名
もとの所有者 旧国分寺町教育委員会
建築年代 1901年
文化財指定等 登録有形文化財

㉛ 醤油蔵 仕込蔵 A

▲『醤油蔵 仕込蔵 A』

讃岐の醤油造りは1810年頃に小豆島を中心に興り、東讃の引田、西讃の仁尾などの地域で盛んになった。この醤油蔵2棟と麹室は香川県旧引田町で長年使用されてきたものである。醤油醸造の近代化により古い時代の用具はほとんど姿を消したが、ここでは昔の用具を使って醤油造りの作業場を再現している。建物3棟と用具5,577点が国の重要有形民俗文化財。この蔵では仕込桶を置き、櫂入れの作業場を再現している。

もとの所在地 香川県東かがわ市引田
もとの所有者 山本醤油・山本定次郎氏
建築年代 1900年前後
文化財指定等 重要有形民俗文化財

▲ 外には醤油瓶がびっしり。

㉛ 醤油蔵仕込蔵 B

▲『醤油蔵仕込蔵 B』

この蔵では醤油を絞る槽場を再現している。仕込を行い、權入れ作業を続けて1年程度経過すると熟成諸味となり、これを圧搾する。圧搾には酒造りと同様に押槽を用いる。諸味を袋に詰めて押槽の中に積み上げ、押蓋を載せると自然に醤油が流れ出る。次に蓋の上に分厚いバンキを載せて一晩圧搾する。さらにオモリイシを吊るし圧力をかけ、10日程で圧搾が完了する。押槽の底には醤油が流れる溝が掘られ、地中に埋めたかめや桶に貯える。

もとの所在地 香川県東かがわ市引田
もとの所有者 山本醬油・山本定次郎氏
建築年代 1700年代後半
文化財指定等 重要有形民俗文化財

▲ 室内にも醤油瓶がたくさんありました。

㉞ 麹室

▲『麹室』

麹づくりは「一麹二櫂三火入れ」と言われ、醤油醸造作業の中で最も重要なものであった。蒸した大豆と炒って砕いた小麦を杉材でつくったモロブタに盛り込み、4日間かけて醤油麹を作る。温度管理が重要で、四方は外気温の影響を受けにくい厚い土壁で覆い、火をいれたり天窓を開放することで室温を調整した。

㉜ 小豆島の石蔵

▲『小豆島の石蔵』

小豆島から身一つで大阪に出て、事業を成功させた藤原与太郎が故郷に建てた石蔵。茨城県稲田産の花崗岩を取り寄せて作った切石積・軒蛇腹付陸屋根・両開き鉄扉の、金庫のような建物である。内部には藤原が村に寄付した公債1万4千円が保管された。現代の貨幣価値に換算すると数千万円に相当し、この公債の利子により北浦村の財政をまかない、村民税は大いに軽減されたという。

もとの所在地 香川県小豆郡土庄町
もとの所有者 旧土庄町北浦字見目地区
建築年代 1915年
文化財指定等 登録有形文化財

㉝ 消防屯所

▲『消防屯所』

四国村ミウゼアム近くの屋島神社参道にあったもので、消防組織の縮小から維持が困難になり、四国村ミウゼアムに移築した。前方に立つ左右の石柱は旧地の道を隔てて西側にあったものを同時に移築した。建物内部には1919年製の手押しポンプと1962年製の小型動力ポンプが収められている。

もとの所在地 香川県高松市屋島中町
もとの所有者 屋島地区新馬場自治会
建築年代 1919年
文化財指定等 登録有形文化財

㉞ 警鐘台

▲『警鐘台』

香川県旧志度町の消防団で警鐘台として活用されていたものだが、元々は護衛空母「しまね丸」の無線マストであった。しまね丸は全長160.5m、幅20m、排水量20.469t、速力18.5ノットの大型タンカーで、飛行甲板も備えた護衛空母兼用の設計であった。終戦間際に神戸の川崎重工で完成後、志度湾長浜沖に隠されていたが、英軍の攻撃により沈没した。終戦後の解体引上げにあたりマストを地元有志が貰い受けた。

もとの所在地 香川県さぬき市鴨産
もとの所有者 旧志度町
建築年代 1945年

㉟ 前田家土蔵

▲『前田家土蔵』

土蔵の前面に番屋が付いた建物である。番屋は隠居屋と離れ座敷を兼ねたもので、こうような土蔵は高知の平野部に多い。土蔵はおよそ20cmの土壁で、その上を漆喰で仕上げてある。外壁には三段の水切瓦がついているが、雨の多い地域である高知において、雨水による漆喰の損傷を防ぐ特有の工法である。特徴的な見た目から水切庇つき土蔵とも言う。屋根は二重の鞘屋根となっており、火災や大雨から土蔵を守る。

もとの所在地 高知県高知市布師田
もとの所有者 前田正徳氏
建築年代 1800年代末頃
文化財指定等 登録有形文化財

▲ 内部はこんな感じです。

金毘羅灯篭

▲『金毘羅灯篭』

江戸時代は庶民の移動が厳しく制限され、自由に旅をすることができなかったが、信仰を目的とする旅は例外とされ、伊勢参りをはじめとした信仰の旅が広まった。四国では金毘羅参りがその代表格であった。金刀比羅宮に続く参詣道は金毘羅街道と呼ばれ、道中には道標や灯篭が数多く建てられた。この灯篭や隣の「常夜灯」もその内の1つ。

もとの所在地 香川県高松市国分寺町新名
もとの所有者 旧国分寺町教育委員会
建築年代 1794年
文化財指定等 登録有形文化財

常夜灯

▲『常夜灯』

もとの所在地 香川県高松市国分寺町新名
もとの所有者 旧国分寺町教育委員会
建築年代 1855年
文化財指定等 登録有形文化財

うどん狐

▲『うどん狐』

むかしむかしのおはなし
四国村には、うどんが好きなキツネがおりました。
お揚げが好きなキツネじゃなくて、うどんが好きなキツネでした。キツネの姿ではお店に入れてもらえないので、いつも見ている受付のお姉さんに化けてうどん屋さんの暖簾をくぐります。けれどうどん屋さんにはお見通し。だってお姉さんのお尻にシッポがついているのです。
キツネは考えました。いつもお姉さんの姿に化けているけれど、いろいろな人の姿に化ければきっと気がつかないかもしれない。
芸術祭になるとたくさんの人がやってきます。
さてさてどの人に化けようか。
今日もキツネは来る人をじっと観察しているのです。うどん屋さんの入り口で鼻をクンクンさせている人がいたら、それはうどん狐かもしれません。

㊱ 丸亀藩斥候番所

▲『丸亀藩斥候番所』

讃岐(香川県)と伊予(愛媛県)の国境に近い箕浦の港に面していた建物で、この辺りには2つの番所が置かれていた。そのうち地元民が詰めていたもので、のちに住宅として改造されていたものを移築時に調査・復原した。
外に開口のない閉鎖的な部屋が建物中央にあり、役所の特徴を示す間取りである。鬼瓦や軒丸瓦には丸亀藩主京極家の家紋が見られる。建物前の境界標柱も、彫られた文字から番所近くに立てられていたことがわかる。

もとの所在地 香川県観音寺市豊浜町
もとの所有者 宝田潔氏
建築年代 1700年代末頃
文化財指定等 香川県指定有形文化財

▲ 内部はこんな感じです。

▲ 土間もありました。

▲『境界標柱』です。

㊲ 吉野家住宅

▲『吉野家住宅』

徳島県伊座利地区は太平洋に面した断崖の下に孤立した集落であった。昔このあたりで鰤の大敷網漁が行われ、他所の網元が大漁を続けるのを見た地元の漁師が借金をして大網を張ったが、その年から不漁が続き大損をしてしまったため改築ができず、昔のままの家が残った。土間は狭く、上がり端の床は漁で濡れた着物や道具のしずくを落とす竹のすのこ張りとなっている。周囲には強風を防ぐ石垣を築くなど、この地区の漁師の家の特徴を残す。

もとの所在地 徳島県海部郡美波町
もとの所有者 吉野佐代太氏
建築年代 1800年代後半
文化財指定等 高松市指定有形文化財

▲ 入口付近には網や壺がビッシリ。

▲ 竹の床です。

▲ スポットは全部見て回ったので、出口を進むと何やら建物の裏側?

▲ こんな場所に出てきました。

四国村カフェ

▲『四国村カフェ』に出てきました。

神戸の異人館の1つで、1905年にイギリス人ウィリアム・ダウンと日本人の妻、ワサ・ダウン夫妻の住宅として建てられた邸宅(ワサ・ダウン住宅)。1944年からは日本郵船の社員寮として使用されていたが、1965年にその役目を終えここに移築した。当時は中廊下型であった間取りや階段位置を変えるなどして、現在はカフェとして使われている。典型的なコロニアル・スタイルで、神戸の明治後期の洋館の特徴をよく現している。

もとの所在地 兵庫県神戸市中央区北野町
建簗年代 1905年
文化財指定等 登録文化財

▲ 建物の前には電話ボックスとポストがありました。

このポストは今から約100年ほど前ロンドン市内にあったものです。
投函口は市内宛と地方宛にわけられています。
夏目漱石が留学中。このポストに日本宛の郵便物を投函したともいわれています。

ざいごうどん『本家わら家』

▲ ざいごうどん『本家わら家』です。

▲ 水車があって風情を感じます。

以上、四国村一周でした。それでは、またッ!!!

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